教師志望だった僕が民泊清掃で起業した経緯

 こんにちは、roomin(ルーミン)代表の籔内滉平(やぶうち・こうへい)です。
現在は民泊専門の清掃事業をしております。

民泊清掃を起業してみました

 現在は都内にある民泊に使われているお部屋専門の清掃の事業をしております。約3名のスタッフとチームを組んで仕事をしております。スタッフはとても優秀な方ばかりで、私が指示を出さなくても自発的に動いたり新しい提案をしてくれたりと、とても恵まれています。私は事業を始めてから約2年が経ちますが、もちろんうまくいったことばかりではありません。この記事では、私が事業を始めるきっかけから現在に至るまでを書かせていただきたいと思います。

 その前に、まずは私が生まれてから現在に至るまでの経緯を書かせていただきます。

元々はいじめられっ子で将来は教師になろうと思っていた

  私は石川県の田舎に生まれ、両親は二人ともサラリーマンという家庭に育ちましたので、副業や起業という言葉には聞き慣れていませんでした。そんな私がそこから副業を始めることになった経緯をお話しします。

 私の幼少期は泣き虫、いじめられっ子でした。原因はよく覚えていないのですが、幼稚園では友達にいじめられていましたし、母と買い物に行くとおもちゃつきのお菓子を買ってくれないと泣き叫んでスーパーの中を暴れ回っていました(笑)。幼稚園に行くのはいやでしたし、幼稚園のバスが家まで迎えに来るのが本当に嫌でした。そういう時の五感は割と覚えているもので、幼稚園のバスが私を迎えに来る前の朝食(焼いたトーストとバター)の香りは今でも忘れられません。

 幼稚園でいじめられた経験から、自分はもっと強くなりたいと思いました。小学校三年生の時に友達から野球チームに誘われ、野球を始めることにしました。そこからは以前よりは体力的にも精神的にも強くなりました。それは自分の中ではよかったのですが、悪い方にも繋がってしまいました。中学校に入ってから次は自分がいじめる側に回ってしまったのです。

自分より弱い人をいじめる。自分より強い人は味方にする。そんな時期がありました。自分は強い、相手は弱い。その状態が自分の中でとても安心でした。校則も破って部活動活動停止になったりして親にまで連絡が入った時もありました。今思い出すと本当に申し訳無かったです。

 私は中学校の授業で初めて英語を習いました。習う前は国語が好きではないのに英語が好きになれるわけがないと思っていましたが、思った以上に得意だったのです。しかし、当時担当だったH先生の教え方に対して不満がありました(笑)。その時「自分ならもっとうまく英語を教えられる」と思ったのがきっかけで英語の教師を目指すことにしました。この時、今まで生きてきた中で一番自分の得意なことを発見したという興奮が湧き出てきました。これを仕事にできたら楽しいだろうなと、とてもワクワクしていました。

 

起業を目指すキッカケになった1冊の本

 中学、高校を卒業し私は新潟県にある上越教育大学という8割が学校教員になる大学に進学しました。順調に4年生になり、教員採用試験に向けてあと1ヶ月というタイミングで、親友のD君からある1冊の本を勧められました。それは、高橋歩さんという方が書いた「毎日が冒険」という本です。高橋歩さんは世界中を旅する旅人であり、出版社を立ち上げたり、沖縄に自給自足の村を作ったりされた方です。この本はそんな彼の自伝なのですが、彼が本気で人生を楽しんでいる姿を見て「私ももっと人生を楽しみたい!」と思いました。また、同時に教師になって子どもに勉強を教えられたとしてもカッコいい生き方を背中で語れないと思いました。この本がきっかけで私は教員になるのをやめました。じゃあ何の仕事をしようかと考えている時にまたD君からある一冊の本を勧められました。それはてっぺんという居酒屋の創業者大嶋啓介さんが書かれた本です。てっぺんという居酒屋は東京にある日本一元気な居酒屋です。この会社の理念は「日本中を明るく元気にする」。私はこの本を読んで、この居酒屋で働きたいと思いました。

 

親に泣かれながらも上京

 その翌月、私はてっぺんの面接を受けました。もちろん親は大反対です。せっかく4年間教師になるために勉強し時間とお金を使ってきたのに、それを捨てて飲食の道に行くのか?僕自身も全く迷わなかった訳ではないですが、教師をしている自分とてっぺんで働いている自分どちらがいいかをイメージした時に圧倒的に後者の方がワクワクしたのでてっぺんで働くことにしました。上京する前日、家族4人を呼び出して実家のリビングでみんなに向けて手紙を読んだことは今でも忘れられません。僕は3人兄弟で弟が二人いるのですが、僕と仲はよかったもののそこまで深い話をしたことが無かった一番下の弟が急に泣き出しました。両親もボロボロに泣いていました。真ん中の弟だけいつも通りでした(笑)。今思うとこの時の決意が今でも私を支えてくれています。親、家族を泣かせてしまったからにはもうやるしかない。そんな思いで上京しました。

学校の教壇ではなく居酒屋の厨房に立つことに。

 大学を卒業し4月、私は一人で上京しました。もちろん友達はゼロです。そして私は学校の教壇ではなく居酒屋の厨房に立っていました。このてっぺんへの入社が、後々私が起業するきっかけになります。入社当初は本当に衝撃的で、なぜみんなこんなにアツいんだろうという印象でした。

 てっぺんスタッフはお客様を喜ばせる気持ちに溢れています。例えばサプライズバースデー。全力の誕生日プレートとダンスでお客様を喜ばせます。電話予約の段階でサプライズの予約がある時はもちろんのこと、サプライズの予約がない時にもお客様が何かのお祝いだとわかった時にはスタッフから勝手にお祝いをします(笑)。それぐらい、直接には利益にならないところでお客様を喜ばせる想いが強い会社です。てっぺんは全国に5店舗あるのですが、1年単位で5店舗内でチームが入れ代わります。つまり、そのメンバーで一緒に過ごせるのは1回限りなのです。私はその1年間でとても濃い時間を過ごさせていただきました。今でもあの時のメンバーの顔を思い出すと会いたくなります。

 中でもてっぺんでは「公開朝礼」が名物です。営業前の20分間の朝礼ではてっぺんスタッフだけではなく社外の方も自由に参加できるのです。この公開朝礼に参加するためになんと1年間に1万人もの方が見学に来られるのです。しかも、北は北海道、南は沖縄からです。更に台湾からも有名な講演家ロッキーリャンさんもいらっしゃったことがあります。その朝礼では普通の連絡事項ではなく、スタッフそれぞれが自分の夢を語ります。「日本一の居酒屋を出す」「地元に元気な居酒屋を出す」各自色々な夢を語るのですが、私の夢は「自分の行動で人に勇気を与える」でした。私が行動した姿を見て誰か一人にでも「籔内さんに出会えて元気をもらえました!」とか「自信がつきました!」とか「もっと頑張ろうと思いました!」と言ってもらえるのをイメージすると、とてもワクワクしてきました。夢を語っているうちにいてもたってもいられなくなりました。「もっと自分のやりたいことを形にしたい。もっと行動したい」とうずうずしている自分がいました。

起業を目指す上で一番刺激を受けた人

 私はてっぺんでそんな刺激的な毎日を1年間を過ごしてきたわけですが、こんな素敵な居酒屋を作った大嶋社長は本当にすごいと思いました。このお店のためにわざわざ沖縄や北海道から来ているお客様がいるのです。そんな風景を見て「自分もこんな場所を作りたい。人からありがとうと言ってもらえる人になりたい」と思いました。これが、私が起業しようと思ったきっかけです。と言うよりもこの思いが形として「起業」という形になっただけです。それを機に、てっぺんを1年間で卒業させていただき、起業の準備を始めました。これを理解してくれた大嶋社長、その他幹部の方々、社員の皆様には今でも本当に感謝しています。

 大嶋社長は私がてっぺんを卒業する前にすしざんまいに連れて行ってくれました。いくら自分で決断したこととは言え、会社を1年で辞める身としては申し訳ない気持ちもありました。しかし、彼は笑顔で「滉平、お前最高やな。」と言ってくれました。こんなに器の大きな方は生まれて始めて出会いました。「大嶋社長を喜ばすためにも絶対に成功しよう」そう自分に誓いました。

 とても勇気を振り絞って決断をし、会社を辞めいざ起業と張り切っていた私でした。ここから全てがうまくいく気がしていました。この1年間、毎日本当に濃い時間を過ごしてきたのでその時間を自分のやりたいことに使えるとしたらどれだけ幸せなんだろう。ワクワクしかありませんでした。

 この様に勢い良く決断した私でしたが、ここからが大変でした。

そう、完全に準備不足だったのです。

何かをやりたいという漠然とした夢はあったのですが、まだ具体的な行動計画はありませんでした。

何をやるかを決めないまま会社を辞めてしまった、やぶうちこうへいのお話は後編に続きます。

 

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