Part1からご紹介しております、僕が敬愛する先輩「拳骨パンチ」のリーダーでもありフロントマンでもある、田子の浦港のアイドル「Dragon -AGIi-(ドラゴンアギ)」こと「鈴木章生」氏。
前編では、彼のプロフィールとバンドへの思い。結成秘話の序章をお伝えしましたが、Part2では彼の副業の核となる活動「田子ノ浦ロックバンド 拳骨パンチ」にフォーカスしたいと思います。
Part1の記事はこちら↓↓
そして、この中編から鈴木さんのことを、敬意と親しみを込めて「ドラゴン」とお呼びします!!
それでは続きをどうぞ!
Contents
今明かされる「田子の浦ロックバンド 拳骨パンチ」の誕生秘話の本編
Part1の最後に「アダルトビデオ店」という、およそこのメディア「サイドラインズ」にふさわしくない単語が出てまいりましたが、ご安心ください。インタビューは終始健全でした。
ドラゴンはバンドに夢中だった中学時代を経て、バンド活動を続けながら地元のとある「アダルトビデオ店」を溜まり場としていました。
そこで知り合ったのは1人の女優。ではなくて女性(普通)でした。
(アダルトビデオ店で知り合う女性ってなんか興味ありませんか? 僕は興味津々でしたが、取材時に深掘りできませんでした。残念!!)
その彼女は当時美容師をしていて、「お客さんに音楽活動をしている人がいるから紹介したい」と誘いをうけました。
そこで紹介されたのが「1回り上のヒゲのおじさん(通称 師匠)と少し年上のお姉さん」でした。
ファーストコンタクトで音楽の趣味が一致、ドラゴンが衝撃を受けたマニアックなバンドの曲(Lynyrd Skynyrd:Sweet home Alabama)の話をしたとたん意気投合したそうです。
そのバンドの編成はこんな感じ。
Vo&AG(ヴォーカル&アコースティックギター)
女性
Bass(ベースギター)
師匠(ヒゲのおじさん)
うーん……なんとも意外な組み合わせだったのですが、ドラゴンがヒゲのおじさんのことを師匠を呼ぶには訳があります。
その理由とは、「彼の生き方考え方に惚れてしまったから」
そこにつたないリードギターとして迎え入れられたのが
EG&Cho(エレキギター&コーラス)
ドラゴン(当時はまだ鈴木さん)
結成当時はカバー曲を中心にアレンジを加えながら活動し徐々にオリジナル曲をもこなすようになりました。
ここでドラゴンは「作曲のいろは、大人の遊び、髭の生態」も学びました。そうなんです。すなわち、師匠がいなければ、きっと「田子の浦ロックバンド 拳骨パンチ」の誕生はありえなかったのです。
そんなオリジナルソングを引っさげて、富士宮市にある「カフェピザオープン」というお店で定期的にLIVEをするまでに成長したそうですが、そんな時、ドラゴンはある違和感を覚えます。
「富士宮市ってあんまり音楽シーンが盛り上がっていないかも……っていうか、この辺の音楽シーン(富士富士宮をまとめて、一部ではFエリアと呼びます)って音楽を受け入れる土壌がないのかも」
そんな違和感を覚えたドラゴンは、地元を盛り上げるために、地域の名前を冠したバンドを組もうと決意します。
カンの良い方はお分かりですね。それの発想が後々、「田子の浦ロックバンド 拳骨パンチ」となるのです。
将来はどうなるかわからない。だけど、副業でも本業でも「拳骨パンチ」は続ける!!
同世代で同郷のローカルバンドを作ろうと決意したドラゴンは、新たにメンバー探しをスタート。
それも超意外な方法で。
ベース担当「Referee☆KUNODA(レフェリークノダ)」の加入
なんと、まずはあの地元のアダルトビデオ屋さんにタムロしていた仲間で一番気の合う友人「Referee☆KUNODA(レフェリークノダ)」に声をかけます。なぜそれが意外かと言うと、クノダ氏は音楽経験が全くなかったのです。
普通、経験者が新しいバンドを組む時って、大抵経験者に声をかけるのがセオリーなのですが、それは「続けること」に念頭を置いた「拳骨パンチ」だからこそのチョイスだったのでしょう。
そして、その新メンバー(その時点では新メンバー候補)クノダ氏は自らのギターを抱えて旅に出たのです。
その名も「西へツアー」。
えー解説しますね。この「西へツアー」ですが、音楽経験のあるドラゴンと、音楽経験のないレフェリーが、それぞれギターを持って電車に乗り、所持金で行けるところ(西方面)に行きます。
降り立った駅の繁華街の路上で、歌を歌い、そこで得た「投げ銭」の収益を活用してさらに西へ行くと言う企画だそうです。
なんかもう頭がいいのか悪いのかわかりませんが、斜め上の発想であることに間違いはないですね(苦笑)
しかしそんな「西へツアー」もわずか3日で終焉を迎えます。
(あ、でも3日も続いたのか。逆にすごいな……)
でもその終焉の理由は金欠でも心が折れたからでもなく、「成長と大金を手にしたから」とのこと。
なんと、ギター初心者のレフェリーは、わずか3日間で「Fコード」が弾けるようになったのでした。
ちなみにFコードとは、ギターの最初の難関と言われているコードで、これが弾けるか弾けないかによって、その後のモチベーションや成長度合いが変わってきます。ギター奏者にとってまさに登竜門と言えるのです。
これが3日で弾けるようになったこと。その事実にドラゴンは今後の可能性を感じたのだとか。
あとついでに、とある街で大金も手にしたそうです(笑)
その後、なぜかレフェリーはベースを担当することに。
これで田子の浦ロックバンド 拳骨パンチのメンバーの2/3が揃いました。
ドラゴン曰く
「拳骨パンチのレフェリーは中立な立場、つまりリーダーなのです。
警察に捕まった時にはもちろんめざましい活躍を見せてくれますがそれだけではありません。
ミュージシャンであり作家能力がすこぶる高い、独特の雰囲気を持ちドラゴンの注文にバツグンのセンスで希望を期待以上に応えてくれるのがレフェリー。
時に厳しく時にやさしく、そして愛せる僕の最も信頼できる親友となりました。」
とのことです。
ドラム担当「Tiger EIJI」(タイガーエイジ)の加入
ギターとベースとドラム。そしてそのうち誰かがボーカルを兼任する。こういった形態のバンドを「3ピース」と呼び、オーソドックスなロックを奏でる上では最小人数のメンバーとされています。
田子の浦ロックバンド 拳骨パンチは、まさにその最小人数で構成されている3ピースロックバンドです。
最後に加入したメンバー。それがドラム担当の「Tiger EIJI」。
彼は、最初はドラゴンの宿敵だったのだとか。そして当時から流行りの衣服「スカジャン」をいつも身に纏っていたそうで、その背中には「虎の刺繍」が。それが理由で彼は「タイガー」と呼ばれるように。
ドラゴン曰く
「拳骨パンチのタイガーは「彼いなくして拳骨パンチと言えず!」強烈な個性と泉のように湧き出るボギャブラリーでバンドの色をより濃いものへ上塗りしてくれる。
音楽的な引出しも多く対応力の広さで頼りになる存在、彼の得意技必殺!ネコトーク術でどんな相手でもすぐに仲良くなってしまう、ドラゴンに無いものを沢山持っているある意味憧れにも匹敵するタイガー。
時には喧嘩もしまた劇的に抱きしめあうドラゴンにとって兄弟のような存在。」
とのこと。
あ、ちなみにいつも啀み合っている「ドラゴン」と「タイガー」の間に入り、2人の仲を取り持つ役目を担っているが、クノダ氏だったこともあり、クノダ氏はレフェリーの名を。そして拳骨パンチのリーダーを務めるすることになったそう。
そうして無事に「田子の浦ロックバンド 拳骨パンチ」が誕生したのだとか。
副業バンドとして20周年! 拳骨パンチに込められた想いと確立されたスタイル
拳骨パンチは前述のように、3ピースロックバンドです。では、その象徴とも言えるボーカリストは誰なのか?
その答えはとても意外でした。なんとこのバンドは「全員歌えて全員踊れるバンド」なのだとか。
ドラゴン曰く「僕たちは田子の浦のアイドルなんですよ。だから、仮に街中で1人でいるときに誰かに声を掛けられてもその人を喜ばせるスキルを持っていないといけない。そうなったら、全員が歌えないと始まらないじゃないですか! 歌えるし踊れるし、パフォーマンスだってできる。だから、楽器の担当はあるものの、僕たちは全員がエンターテイナーなんですよ。だからこそ20年間も地元田子の浦のアイドルでいられるんです」
と、実は深い深い想いが込められているのです。
3人と言うトライアングルだからこそ、どの角もしっかりと主張をしないとバンドとしてのバランスが取れないんですね。
バンドの知名度アップと大切な収益源である「グッズ」
インディーズバンド(レコード会社や事務所に所属せずにすべて自分たちでマネージメントを行うバンド)の貴重な収益源は、グッズです。
音源と呼ばれる「デモCD」はもちろん、「T-シャツ」だったり、タオルだったり、ステッカーだったりと、その種類は様々。
ここをいかにコストダウンして、いかに多くの人に買ってもらうか。これが今後のバンドの貴重な活動資金となるのです。
それはメンバー全員が他の生業を持つ「副業バンド」でもある拳骨パンチの強みでもありました。
出版業界と言う、印刷や紙にほど近い業界に身を置くドラゴンは、そこに目をつけました。
「グッズをできる限り自作してコストを抑えよう!!」
そこでまず着手したのがT-シャツの作製。
本業のコネクションや役得を活用して、ゴニョゴニョしたことで、大幅なコストダウンに成功しました。
ハンドメイドと言うこともあり、なんと最初の販売価格はT-シャツ1枚「325円」だったそうです。
これ、下代ではなく上代だったそうですよ。
しまむらとかGUでもこんな値段じゃ買えませんよね?
なぜもっと高い販売価格にして、儲けようとしなかったのか? 謎でしかないですよね。
でもドラゴンには作戦がありました。T-シャツは貴重な宣伝ツール。
購入した人が街中やライブ会場で着用してくれることで、バンドの宣伝にもつながるのです。
そこを狙って、T-シャツの前面には、バンド名「拳骨パンチ」ではなく、大きく手書きで「田子の浦ロック」と書きました。
ドラゴン曰く、「バンドをある意味真剣にセカンドビジネスとして考えているが故の価格設定であり、本気で地元の雄になりたいからこその「文言の選択」」だったそうです。
いや。こう言う姿勢ってほんと大切ですよね。見習わなければ。
その後、「田子の浦ロックT-シャツ」は、シルク印刷へと変貌を遂げたものの、今でも驚異の税込500円(2018年12月調べ)と言う謎の価格を維持しているのだとか。
ちなみに、僕が数ある拳骨パンチグッズの中で最も面白いと思ったのが、「スタンプカード」。
拳骨パンチのライブを1回観覧すると、スタンプを1個押印してもらえて、合計5個スタンプが貯まるとなんとT-シャツがもらえるのだ!!
飲食店ではなく、雑貨店ではなく、バンドが発行するスタンプカード。正直このシステムを初めて聞いた時には、頭を殴られたような衝撃を覚えました。
それだけ拳骨パンチは「LIVE」を大切にするバンドであり、ステージパフォーマンスに自信を持っているバンドなのでしょう。
Part 3ではそんな拳骨パンチの長続きの秘訣を紐解きます↓↓
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